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2014年1月

2014年1月20日 (月)

マイケル・ウォルツァー『グローバルな市民社会に向かって』

さて、最後はマイケル・ウォルツァーの『グローバルな市民社会に向かって』です。

これは、本当は論文集なのですが、

マイケル・ウォルツァーが主張している市民社会論に対して

考察を加えているようになっているので、ここではウォルツァーの論文だけを取り上げます。

ウォルツァーは現代資本主義社会を

連帯感が失われた社会である

と形容しています。

それに対してどのように対応していくのか。

現代資本主義社会のカウンター理論として

社会主義理論(左派)があると述べています。

この社会主義理論、たとえば公民権運動のように

多くの人を「市民社会」のなかにとりこむことに成功したものの、

60年代以降は、現実社会とのかい離が発生していると指摘しています。

また、社会主義というのは現実には非政治国家で、対立なき統制による「物の管理」という

現実にはありえない前提が必要になると主張しています。

次に、資本主義からのアプローチを試みています。

現代の社会に最も近いアプローチと言えるかもしれません。

個人的な選択をすることが最も望ましいことであると。

それは、まるで消費行動のように選択を繰り返すことによって

自己実現を行っていくというのです。

とはいえ、このことも市民社会の連帯には何ら役に立っていないと警告しているのです。

市場の成功とは裏腹に、多くの人が市場社会から脱落し生活が成り立っていないと指摘します。

それで、その失った連帯を国民的伝統を掘り起こし、伝えていこうと考える人が生まれます。

それがナショナリズムであるとウォルツァーが指摘しているのです。

あるものは宗教的なものに、そしてあるものは民族的なものに求めているのです。

しかし、それも欠点があるとウォルツァーは指摘します。

彼らは政治は代理的参加で満足してしまい、感情が収まってしまえばそれ以上高揚することはない。

つまり、肝心な経済や社会については気まぐれな高揚に終始してしまうのです。

そこで、ウォルツァーは市民社会論を展開します。

上記の理論の欠点はどれか一つを主張するところにあると指摘します。

つまり連帯を試みる以上、これらをつなぎ合わせ国家権力のもとに生活していく必要があると主張するのです。

そして、批判的共同社会論につながっていくのです。

ほかの論者も述べているように、国家権力が常に正しく行動するとは限りません。

もとい、国家権力はあくまでも国家のために行動するのです。

ときには個人と国家の利益がぶつかることもあるでしょう。

そのときに国家権力が常に正しいと言えるのか、さらに言えば正しさの基準を国家に委ねることに問題がないのか

検討する必要があるのではないのでしょうか。

さて、東京都知事選。候補人をみてみると、

左派はいるわ、資本主義論者はいるわ、ナショナリストはいるわ・・・。

ウォルツァーの市民社会論を考えずにはいられません。

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2014年1月 5日 (日)

年末年始は読書三昧~自由論の討議空間 フランス・リベラリズムの系譜~

最後は、

『自由論の討議空間 フランス・リベラリズムの系譜』です。

これは、フランス・リベラリズムについての論文集です。

モンテスキュー・バーリン・ルソー…

改めてフランス革命をひも解く必要もないくらい、

かつて、フランスでは自由について闊達に議論されていました。

しかし、政治体の転換の中で自由論は埋没され、

いつのまにかリベラリズムという言葉も英米圏に持ち去られてしまいました。

ところが、80年代後半よりそれまでのマルクス主義の挫折と幻滅から

再度英米圏のリベラリズムを吸収し、自由論の再考を試みているということなのです。

その経緯から、フランス・リベラリズムは、

マルクス、アーレントそして、アメリカのリベラリズムとの関連が見られます。

とはいえ、地理的文化的の要因から英米圏のリベラリズムとの違いがみられるのも確かです。

経済システムの行きずまりが見えている中で、自由論の再考は

あらゆる視点から考えていくべきであると考えます。

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2014年1月 3日 (金)

年末年始は読書三昧~メタ構想力 ヴィーコ・マルクス・アーレント~

木前利秋『メタ構想力 ヴィーコ・マルクス・アーレント』

メタ構想力とは、高次元の構想力ということなのだそうです。

といっても、ピンとこないので、それこそメタ構想力を用いると、

文字や記号なので書かれているものから読み取っていくというものです。

平たく言うと翻訳作業のようなものでしょうか。

それを、ヴィーコとマルクスとアーレントから探っていこうとしています。

ヴィーコからはデカルトが、すべてを懐疑的に誤謬の一切を退ける態度を批判し、

真らしいものも組み入れるべきであると主張します。

そして、心理らしいものからは共通感覚が生まれると主張します。

また、マルクスが労働の前に、その成果を観念的に先取りし、

複数の人と労働をするときには、事前にその観念を文字や記号で示す必要があります。

それを、相手方が同様のイメージを受けることが、メタ構想力であると指摘します。

そのあと、メタ構想力が人間の特異な能力であるとの説明の後、

アーレントに行きつきます。

メタ構想力というのは、いわゆる「常識でしょ?」という範囲内なのかと思うのですが、

それを自身で判断するのは難しい。

また、共同体を超える文化として、神を信じる心と、結婚と、葬式だと示していますが、

宗教や文化が逆に人を引き裂くこともありますよね。。。

根源的な同質性から理解しあうのは、互いの尊重が必要なのではないかと

思いました。

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