書籍・雑誌

2016年7月31日 (日)

『合理的な愚か者』を読む

今回はアマルティア・センの『合理的な愚か者』を読みました。
センはアジア初のノーベル賞受賞者で、経済学に倫理的な視点を取り入れています。
近代革命以降人は合理的な考え方ができると考えられていました。
啓蒙さえ施せば、みんな合理的な考え方ができ、それぞれが幸せになれると考えました。
しかし、センは合理的な考え方そのものに疑問を呈します。
はたして、合理的な考え方はリベラルで倫理的なのだろうかと。
合理的なのだから、考え方はひとつに集約されていきます。
みな、合理的になれば同じ考え方を持つはずです。
しかし一方で、「多様性の尊重」が重視されつつあります。
つまり、合理性はリベラルな考え方と相容れないのです。
また、消費活動もそうです。
例えば、エシカル消費では地物野菜を買おうと考えます。
それは倫理的かもしれませんが、利益を追及する合理性は乏しい。
またタックスヘイブンの問題も合理的に利益を追及していますが、倫理的には問題。
そのような、矛盾点をあぶり出しています。
そのような矛盾点をどのように取り払っていくのかが、
今を生きている私たちの課題ですね。

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2016年4月23日 (土)

怪獣と腐らないパン

本もぼちぼち読み始めています。

一つは

渡邉格『田舎のパン屋が見つけた「腐る経済」』

テレビで紹介されていた資本主義社会へのアンチテーゼとして、田舎で利潤を目的としないパン屋さん。とはいえ、採算性をしっかりとるため、安くはありません。

「天然酵母に耳を傾けているうちにこうなった」と著者は言います。

資本主義社会の問題点、そしてそこから抜け出すための展開がなされているのですが、文章も天然酵母の発酵の泡のように、浮かび上がっては消えていってしまうので理論としてつかむには困難で消化不良で読み終わってしまいました。

その理論的補強とつながるのは、

エド・デーンジェロ著川崎良孝ほか訳『公立図書館の玄関に怪獣がいる ポストモダンの消費資本主義はどのようにして民主主義、市民教育、公益をおびやかしているのか』です。

アメリカの公立図書館がポストモダンの消費資本主義に直面したとき、行政サービスの利益追求のために、予算が削られ、合理性を追求された結果、市民教育の機会が失われ、民主主義のために必要な知識、公共圏の提供という公益が失われていると主張します。

その指摘が間違っていなかったのは、日本における一連の図書館の騒動をみれば明らかです。合理性を求め利益を追求する企業が図書館を運営するとどうなるのか。

図書司書は素人の非常勤職員があてがわれ、その結果図書館の質は著しく低下しました。

しかし、企業としては当然の行為なのです。企業が行ってきたのは専門家を作ることではなく、業務を細切れにして平準化し、労働対価を切り下げていくことで利潤を追求していくことなのですから。

それは、『田舎のパン屋―』でも、初めに努めたパン屋が、利潤を追求するために交換可能な労働者として酷使される場面に現れています。

女性や外国人動労者を、労働市場に参入させようとさせるのも、より労働対価を切り下げるためであると厳しく指摘しています。

そして、その流れは今や公共サービスにも及んでいるのが現状です。その先鋭的な状況として現れたのが公共図書館だったのです。

図書館は市民に求めるサービスに応じるべきであるとする昨今の状況は公共サービスにも消費資本主義が及んでいる結果だと言います。そして、消費者が市民に取って代わっているとまで主張します。

消費者はエンターメントを求めるが、教育を求めない。わかりやすく、心地よい情報だけを求めていく。その結果、図書館にはエンターテイメント本が何冊も並べられ、本屋との区別がつかなくなっていると指摘します。

たしかに、テレビを見ればわかりやすい情報が視聴率が取れるので、視聴率を求める民放では特にわかりやすさやエンターテイメント性ばかりが強調されていますよね。

とくに、社会主義国家が瓦解した後は、資本主義こそが民主主義であり、先進国が民主的なのは経済が発展していたからであるとばかりに、より資本主義が強化され、情報はよりわかりやすくエンターテイメントに、仕事はより細かく分断され、集積化されるようにグローバルに広がっていっています。

しかし、経済発展と民主的であることとは関係ないことは近隣諸国の経済発展をみれば明らかです。また、集積化された結果富は偏在化し、一部の裕福な人と仕事とは到底言えない分断化された作業をこなすだけの大多数の人とに分かれてしまっているのです。

また、消費資本主義の特徴としてショッピングモールをあげています。ショッピングモールでは公共スペースはなく個々に買い物をする私的スペースしかないと指摘します。顧客同士また、モールの専門店同士のつながりはなく、モール経営者が利用を統制しています。

そうなれば、モール経営者と顧客もしくはモール内店舗の経営者との関係は到底対等とはいえず、富と権力が偏在化されていくのです。

資本の追求こそが求められます消費資本主義において、労働はさらに細分化され、市場はさらにグローバル化され、商品は交換価値の増大が求められます。そこに大多数の消費者や労働者がシステムについて考える余地はありません。

そうなれば、労働者の給与は下がり、より富の集積が起こり、さらに商品の平準化が求められるでしょう。パンは機械のように同質で腐らないことが求められるのです。

公共スペースが失われ、理性が失われてしまえば、公立図書館が守っていた民主主義が失われてしまう。そのような危険性を指摘しながら結んでいます。

たしかに、そのような危険性は現代社会に内在しています。時折インターネット上で起きる眉をひそめたくなるような炎上や、結局混乱をもたらしただけであったアラブの春など、指摘の正しさをいくつも見つけることができます。思考停止をしている人の行動は考えていないことを無自覚なだけに危険極まりないこともわかります。

しかし、地方に行ってパンを焼くことを決断した人がいるように、消費資本主義社会においても、人は考えることを止めないでしょう。

そして、その多くの人の考えの集積の先に新たな世界が開けるのだと思います。

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2015年1月 6日 (火)

入院中に本を読んでみた~J.ボードリヤール×吉本隆明『世紀末を語る あるいは消費社会の行方について~

入院中、暇かも・・・。なんて思っておりましたが、

ぜんぜん、そんなことを考える余裕はありませんでした。

でも、入院生活も後半になるにつれ、だんだん時間に余裕が出てきました。

そこで、ようやく持ち込んでいた本を読み終わることができました。

J.ボードリヤールの本も、吉本隆明の本も以前読んでいて、

過去に書かれていたにもかかわらず、視点が新しいというよりもその後誰も続いていないな…。という印象を受けていました。

その二人の対談です。

発行されたのは95年。

ちょうどバブルがはじけて、阪神淡路大震災、サリン事件が発生したころです。

当時、ポスト冷戦というまだ冷戦後の影と光が混とんとしていたころに、

既に、消費社会になりつつある市民社会を起点として、

イスラム過激派、ナショナリズム、そしてテロリズムといった現代明らかになりつつある問題に鋭く切り込んでいます。

しかし、これらの問題は主流になりえなかった。

むしろ、ドラッガーがもてはやされ、「成功者」という言葉を信仰し、システムを加速させてしまったところに、

現代社会における以前のインテリ階層の限界を感じてしまうのです。

さて、この問題は広く衆目を集めるところになりました。

この行方について、できるだけ近くで、社会の情勢をみていきたいと、身の程知らずにも思わずにいられません。

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2014年1月20日 (月)

マイケル・ウォルツァー『グローバルな市民社会に向かって』

さて、最後はマイケル・ウォルツァーの『グローバルな市民社会に向かって』です。

これは、本当は論文集なのですが、

マイケル・ウォルツァーが主張している市民社会論に対して

考察を加えているようになっているので、ここではウォルツァーの論文だけを取り上げます。

ウォルツァーは現代資本主義社会を

連帯感が失われた社会である

と形容しています。

それに対してどのように対応していくのか。

現代資本主義社会のカウンター理論として

社会主義理論(左派)があると述べています。

この社会主義理論、たとえば公民権運動のように

多くの人を「市民社会」のなかにとりこむことに成功したものの、

60年代以降は、現実社会とのかい離が発生していると指摘しています。

また、社会主義というのは現実には非政治国家で、対立なき統制による「物の管理」という

現実にはありえない前提が必要になると主張しています。

次に、資本主義からのアプローチを試みています。

現代の社会に最も近いアプローチと言えるかもしれません。

個人的な選択をすることが最も望ましいことであると。

それは、まるで消費行動のように選択を繰り返すことによって

自己実現を行っていくというのです。

とはいえ、このことも市民社会の連帯には何ら役に立っていないと警告しているのです。

市場の成功とは裏腹に、多くの人が市場社会から脱落し生活が成り立っていないと指摘します。

それで、その失った連帯を国民的伝統を掘り起こし、伝えていこうと考える人が生まれます。

それがナショナリズムであるとウォルツァーが指摘しているのです。

あるものは宗教的なものに、そしてあるものは民族的なものに求めているのです。

しかし、それも欠点があるとウォルツァーは指摘します。

彼らは政治は代理的参加で満足してしまい、感情が収まってしまえばそれ以上高揚することはない。

つまり、肝心な経済や社会については気まぐれな高揚に終始してしまうのです。

そこで、ウォルツァーは市民社会論を展開します。

上記の理論の欠点はどれか一つを主張するところにあると指摘します。

つまり連帯を試みる以上、これらをつなぎ合わせ国家権力のもとに生活していく必要があると主張するのです。

そして、批判的共同社会論につながっていくのです。

ほかの論者も述べているように、国家権力が常に正しく行動するとは限りません。

もとい、国家権力はあくまでも国家のために行動するのです。

ときには個人と国家の利益がぶつかることもあるでしょう。

そのときに国家権力が常に正しいと言えるのか、さらに言えば正しさの基準を国家に委ねることに問題がないのか

検討する必要があるのではないのでしょうか。

さて、東京都知事選。候補人をみてみると、

左派はいるわ、資本主義論者はいるわ、ナショナリストはいるわ・・・。

ウォルツァーの市民社会論を考えずにはいられません。

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2014年1月 5日 (日)

年末年始は読書三昧~自由論の討議空間 フランス・リベラリズムの系譜~

最後は、

『自由論の討議空間 フランス・リベラリズムの系譜』です。

これは、フランス・リベラリズムについての論文集です。

モンテスキュー・バーリン・ルソー…

改めてフランス革命をひも解く必要もないくらい、

かつて、フランスでは自由について闊達に議論されていました。

しかし、政治体の転換の中で自由論は埋没され、

いつのまにかリベラリズムという言葉も英米圏に持ち去られてしまいました。

ところが、80年代後半よりそれまでのマルクス主義の挫折と幻滅から

再度英米圏のリベラリズムを吸収し、自由論の再考を試みているということなのです。

その経緯から、フランス・リベラリズムは、

マルクス、アーレントそして、アメリカのリベラリズムとの関連が見られます。

とはいえ、地理的文化的の要因から英米圏のリベラリズムとの違いがみられるのも確かです。

経済システムの行きずまりが見えている中で、自由論の再考は

あらゆる視点から考えていくべきであると考えます。

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2014年1月 3日 (金)

年末年始は読書三昧~メタ構想力 ヴィーコ・マルクス・アーレント~

木前利秋『メタ構想力 ヴィーコ・マルクス・アーレント』

メタ構想力とは、高次元の構想力ということなのだそうです。

といっても、ピンとこないので、それこそメタ構想力を用いると、

文字や記号なので書かれているものから読み取っていくというものです。

平たく言うと翻訳作業のようなものでしょうか。

それを、ヴィーコとマルクスとアーレントから探っていこうとしています。

ヴィーコからはデカルトが、すべてを懐疑的に誤謬の一切を退ける態度を批判し、

真らしいものも組み入れるべきであると主張します。

そして、心理らしいものからは共通感覚が生まれると主張します。

また、マルクスが労働の前に、その成果を観念的に先取りし、

複数の人と労働をするときには、事前にその観念を文字や記号で示す必要があります。

それを、相手方が同様のイメージを受けることが、メタ構想力であると指摘します。

そのあと、メタ構想力が人間の特異な能力であるとの説明の後、

アーレントに行きつきます。

メタ構想力というのは、いわゆる「常識でしょ?」という範囲内なのかと思うのですが、

それを自身で判断するのは難しい。

また、共同体を超える文化として、神を信じる心と、結婚と、葬式だと示していますが、

宗教や文化が逆に人を引き裂くこともありますよね。。。

根源的な同質性から理解しあうのは、互いの尊重が必要なのではないかと

思いました。

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2013年12月31日 (火)

年末年始は読書三昧~ハンナ・アレントの政治理論~

大みそかだろうと、本を読みあさっています。

catfaceイジツパリダネエ

今回読んだのは、

川崎修『ハンナ・アレントの政治理論 アレント論集I』

です。

アレントは、活動を分離して考察をしています。

たとえば、活動的生活を「労働」、「仕事」、「活動」に分けて考察しています。

現代社会に立ってみると、「労働」と「仕事」の分離というものはものすごく難しい。

でも、その辺りが分離できなければ、一部の経営者の横暴な理論を止めることができないのかもしれません。

「活動」は、一度開始されると、その活動を始めた当の本人のコントロールができないのは、

インターネット上にまつわる様々なトラブルが物語っているような気がします。

自己責任であると片づけがちですが、人の行動は不可逆性と不可予言性があるのも

アレントの指摘の通り。

不可逆性には「許し」を、不可予言性には「約束」によって克服されるとしていますが、

約束はともかく、許しはどのように客観性を持たせるのかは

クレームの問題を考えてみても、とても難しいように思いました。

精神の生活(著者はあえて「観照的生活」としていません。)では、「思考」「意志」「判断」をあげています。

アレントは、ハイデガーの弟子にあたる人なのですが、

ハイデガーの時間の考察を政治思想に取り入れています。

人は時間から離れて思考し、

過去の出来事を判断し、

未来に対して意志を持って活動すると指摘しているのです。

ギリシア哲学に意志がないというアレントの指摘は、新鮮でした。

ある命令に対して、自発的に従うことも従わぬこともできるという精神の内的葛藤を

自覚したパウロによって「発見」されたと指摘されているのです。

ということは、意志という考えの中にすでにキリスト教が内包されているということになります。。。

また、社会が私的なものへと侵入しているのは「私有財産」の喪失であるという指摘します。

消費契約は契約が社会化していると指摘されて久しいのですが、その背景に私有財産の喪失があると考えるとは…。

消費者の最も大きな財産は住宅になるのでしょうが、住宅ローンを払っている間、

厳密にいえばその財産は銀行=国家(政策)ともいえ、アレントの指摘にうなずける部分もあるのです。

アレントは、「権力」と「暴力」も分離して検討します。

権力は、共同体としての力であるとしますが、暴力は、物や人の固有の性質であると分けています。

そして、暴力は権力を破壊しても、権力を生み出すことはできない。権力には正当性が必要であるとされています。

また、革命は、暴力によって制圧されるのではなく、政府側の暴力が作動しなくなることによって成功といえると指摘しています。

アレントの理論によれば、中東において、エジプトでは成功したにもかかわらず、リビアでは成功しないのは、

政府側の暴力がいまだ停止していないからであるといえそうです。

しかし、暴力によって守っているはずの権力の低下を招いているとするならば、皮肉な話です。

アレントは「共通認識」を持ち出します。

そして、全世界まで共同体を広げることができるのならば「共通認識」もより正当性をもったものであろうと。

しかし、共同体がいつも正しい認識を持つとは限りません。

いじめの問題をあげるまでもなく、共同体にマイノリティが圧迫されるのは歴史が証明しています。

アレントは、その部分を芸術の「美」で克服しようとしますが、皮肉にも現代芸術においてこそ「美」は多様化しつつあると考えられるのではないのでしょうか。

とはいえ、「近代市民社会」という理想論に逃げることがなく、現実を冷徹に見据えて分離し概念化したアレントの功績は

とくにアメリカの政治学においてしっかりと根を張っていると考えられるのです。

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2013年12月28日 (土)

年末年始は読書三昧~ザ・フェデラリスト~

年末年始は9連休にもかかわらず、遠くに行けず

cryingムダヅカイノスエ・・・

そのため、図書館で本を借りまくって、読書三昧に過ごすことにしました。

catfaceリーズナブル、デスナ

まずは、

A.ハミルトン、J.ジェイ、J.マディソン『ザ・フェデラリスト』

(岩波文庫・1999年)です。

アメリカの独立戦争後、13州が合衆国としてまとまっていくべきであるとして

ニューヨーク邦(州)に向けて発表された論文集。

アメリカ合衆国の国の成り立ちを知ることができます。

前半は、連邦国家(合衆国)の必要性。

後半は、連邦共和国としてどうあるべきかということが書かれています。

三権分立を主張したのはモンテスキューでしたが、

その3部門が相互に憲法上のよく政権を行使できるように、

それぞれの独立を守りながら互いにけん制しあうべきであると主張したのでした。

もう一つは、権力の不正から守るためには、社会の中に非常に

多くの相違なる市民を包含することを主張しています。

つまり、全体主義は不正をはびこらせる原因になるとされたのです。

日本国憲法における、三権分立や信条の自由はここに根拠があるのですね。

しかし、「日本とアメリカは価値観が一致している」というのは違うように思うのです。

それは、前半における連邦結果の必要性。

小さな共同体を集めて大きな連合体を作ることによって、

国際法の遵守にも外国からの防御にも役立ちより広い資源を利用できるとされています。

共同体の独自性を損なわずに、連邦国家を構築することによって

より、人民の生活を守ることができると主張されているのです。

また、防衛はある州に任せるのではなく、

国全体の安全のために合衆国が負担するべきであるということが

明確になっているのです。

たとえ、国の辺境地であっても、そこが攻撃されたら

国全体で犠牲を払いながらでも守っていく。

日本では、さまざまな防衛上の問題を抱えていますが、

国全体、とくに中枢部が(税金以外で)犠牲を払えるのか。

また、日本が外国である限り、アメリカと利害関係が一致しうることが

本当にありうるのか。

これは、共和国として理性的な論理から人造的に生み出してきた国と、

連続した文化の中で作り上げてきた国とのそれぞれの特異性であり、

埋められない溝のようなものを感じてしまうのです。

とはいえ、論文のようにアメリカ合衆国が歩んでいるかといえばそうではなく、

2大政党制とか、ロビイストの存在は、到底予知し得なかったと思うのですよね。

本書で取り上げられている、「公共の善」や「正義」の現在における意義については、

現在の政治哲学者の論考が必要になってくるところです。

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2013年12月20日 (金)

久しぶりにアリストテレス『ニコマコス倫理学』を読んでみる

久しぶりに、というか10年ぶりにアリストテレスを読んでみた。

いろいろ探したんだけど、結局岩波新書しかなくて、
文語体を泣きながら読んだことを思い出す。

また、プラトンの『饗宴』は電車の中で読んでいて、
ちょうど少年愛のくだりを近くのおばさんに盗み読まれてしまい、

冷やかな視線を受けたこともあったっけなー

(ヒドイゼcrying

閑話休題。

久しぶりのアリストテレスは当時よりもずっと読みやすいと思ったよ。

アリストテレスが主張するのは「親愛」の精神。

翻訳によっては「友愛」だったりするんだけど。

日本では、某元首相のおかげで単語だけが一人歩きをしてしまったけど。

アリストテレスは、親しい人がいるからこそ人は生きていくと論じていく。

親しい知人や家族のように接することに善く生きていくことのヒントがあるという。

孤独を抱える人が増えてきた現代社会において、親愛の情を抱き続けるってことは難しい。

それでも、ヒトが社会的な生き物である以上、人と向き合っていかないといけないのだけどね。

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2013年12月12日 (木)

マイケル・エドワーズ『「市民社会」とは何か 21世紀のより善い世界を求めて』

久しぶりに、本を読みました。
マイケル・エドワーズ『「市民社会」とは何か』
…もちろん翻訳版。

1989年のベルリンの壁崩壊をきっかけにして
理想郷のように東欧に大きな影響を与えた市民社会。
そして、いま中東にもおおきな影響を与えています。

その市民社会についていて分かりやすく解説。
忘れがちですが、アリストテレスから市民社会について言及しています。
しかし、奴隷を正当化していた時代の概念とは大きく変化しているわけで。
それを時系列に説明をしています。

近年、大きく取り上げられているNGOを始めとした団体活動としての市民社会。
善い社会としての市民社会。
さらに「公共圏」という国などに左右されず、
意見を述べることができる場としての市民社会。

それらの3点のアプローチから市民社会を探っています。
善い社会という言葉にアメリカの楽観主義を感じてしまったりするのですが。
時折ネット上で語られる、
団体活動が手数料をとっていると批判的にみられてしまう件とか
マスコミに対して批判的に語られてしまう件とかの
思考に迫ることができるのではないかと思ったのですよ。

日本の場合は言葉だけが蔓延してしまい、感情に任せて使ってしまうだけで
理性的に掘り下げられないことが多いことが残念ですが。

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